祖母の被爆体験

戦争、空襲や原爆の恐ろしい体験をした人達がご高齢となり、その記憶も風化しつつある今日“世界に誇るべき平和憲法”の価値を見いだせず、それよりも“軍事力”を、と軽々しく考える人達が増えてきていることに、形の見えない何とも言えぬ恐怖感を覚えずにはいられない。

私が小学校4年生の時、夏休みの“平和学習”の課題で作文を書くために、祖母に被爆体験を訊いたことがある。子供だった私は無邪気に、

「おばあちゃん、作文ば書かんばいかんけん原爆の話ばして〜」

と言って、しつこくせまった。
普段はおしゃべりで負けん気が強く、けして何事にも弱音を吐いたりしなかった祖母が、その時は

「話しとぉなか。(話したくない)」

と言って泣き出したので私はビックリして、しばらく黙って考えたあと、

「おばあちゃんごめんね。でも聞かせて欲しかと。。。」

と再度お願いしたのでした。
祖母は、ちょっとだけ時間がほしいと言い 、数時間後

「しょんなかね。(しょうがないね)・・・」

と、一回深呼吸をしたあと、ゆっくり話しはじめました。

以下は平成7年、83才で亡くなった祖母の被爆体験です。
※地図は伊商学徒報国隊原爆被爆体験記より転載させていただきました。
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1945年8月9日、祖母はこの日の早朝、買い物をするために八千代町(地図のピンクの●)の実家から北へ、爆心地(地図の中央の赤●)となる松山を通り長与方面へと出かけたそうです。そこで農家の人から野菜や梨などを売ってもらい、買い物を済ませ“昼までには家に戻れそう”と思い家路を急ぎました。

道の尾付近(爆心地から約3km北)まで来たときのことです。飛行機の音が聞こえたのか、人が叫んだのか、あまり定かではありませんが、上空に光る物が見え、咄嗟に道路脇にあった小屋影にしゃがみこみました。その瞬間、ピカッと突然の閃光、ドンッと大きな振動、それから凄まじい風が吹き抜けました。

どれくらい経ったころでしょうか?しばらくして、恐る恐る小屋影からそーっと通りに出てみると、ほんの少し前まで見ていた街の風景は一変。周りにあった建物は殆どが倒壊し、瓦やガラス片やらありとあらゆる物が散乱し、路面電車や馬車が倒れ、馬が燃え、割れたガラス片などが突き刺さり大ケガをした人、大火傷を負った人、倒れて既に即死した死体・・・何が何やら、パニックになりました。実家に残してきた家族のことが気がかりで直ぐにでも飛んで帰りたかったのですが、松山方面に近づくにつれ状況は酷くなる一方で、結局この日は先には進めず、断念して引き返し、一夜を過ごしました。

翌日、一面の焼け野原のなか家路を急ぎました。実家に帰るには爆心地の松山を通らなくてはいけません。そこは、黒こげの死体がゴロゴロと転がり、瀕死の人達のうめき声があちらこちらから聞こえ、ローソクのお化けがヨロヨロと行進しており、目を覆わずには居られない正に地獄絵そのもので、恐ろしさに足がすくみ、何度も気絶しそうになりながら必死に歩きました。途中、何処からか名前を呼ばれて立ち止まると、顔が真っ黒で誰だか分からない人が倒れていました。その人が誰なのかは思い出せませんでしたがその人が言うには女学校で同級生だったそうです。その人は

「水を飲ませてほしい」

と言いました。

「ごめんね、水は持っとらんとよ。これで良かったらあげるけん。ごめんね!」

そう言って梨をひとつ手渡して、逃げるようにその場を立ち去りました。
実家にたどり着くと家は崩れていましたが家族は皆なんとか無事でした。

あのとき見た同級生はその後間もなく息を引き取ったであろうと思います。
爆心地付近で見かけた恐ろしいローソクお化けの正体も、全身大火傷でデロンっと皮膚が垂れ下がってしまった人達・・・昨日までは自分と同じ姿をした“人間”だったはずなのに・・・

自分が奇跡的に助かり無傷だったこと。
助けをこう人達を“お化け”だと思って恐ろしくてたまらず振り払い、瀕死の同級生をも助けられず見殺しにしてしまったこと。
祖母はそのことをずっと罪悪感に苛まれながら生きてきたようです。
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「話しとぉなか。 思い出しとぉなか。」

なぜ祖母があんなにまで話すことを拒んだのか・・・
祖母が泣きながら話してくれたこの被爆体験を聞き終えた時はじめて私は理解し、戦後ずっと祖母が封印していた辛い過去の記憶を無理にこじ開け泣かせてしまったことを子供ながらに本当に申し訳なく思い、何度も
「おばあちゃんごめんね。」と半べそかいて謝ったのを覚えています。

亡くなる少し前、祖母は痴呆症で時々おかしなことを言うことがありました。
私の弟(自分の孫)が仕事から帰宅してきたのを見て、突然にじり寄ってすがりつき、

「轟(とどろく)さん! あんた、よぉ帰って来たねぇ!!! でも、もう家も何もかんも、ピカでやられて、のぉなってしもうたとばい。(無くなってしまったんだよ)」

と言って泣き出しました。
弟は 「うん。うん。大丈夫ばい。」

そう言って、けして笑ったりせず、ただ頷いていました。
私は自分と比較して弟のことを“なんて優しいんだろなあ”と関心しました。
“轟(とどろく)さん”というのは、フィリピンだったか?に出兵して戦死して戻らなかった祖母の弟です。
自分の孫を、自分の弟と勘違いしたようです。
祖母が亡くなった後、箪笥の中から母が“轟さん”の兵隊姿の写真をみつけ、私に見せてくれたのですが、これが驚くほど本当に弟とそっくりでした。。。

祖母にとって原爆の記憶は“深い心の傷”でした。
亡くなられた多くの方々のことは勿論、生き残った方々の多くも祖母と同じように“生き残ったことへの罪悪感”を抱えて生き、そして亡くなっていくのかと思うと本当に胸が痛みます。
原爆が落とされた場所がカトリックの人が多く暮らしている“浦上天主堂”の近くだったこともあり、多くのクリスチャンの人達は“これは神から与えられた受難”と心に受けとめ“赦すこと”誰も責めることなく無く、歯をくいしばって皆で力を合わせ教会を再建しようと必死で生きたそうです。
これが多くの市民を勇気づけることにつながり、長崎の街は今日のように復興することができました。
宗教感の違いからも、その思いは様々だと思いますが、
いかなる理由にせよ、武力に対して武力で立ち向かってはならない。
それは“憎しみの連鎖”であって何の解決にもならない。

この愚かな過ちを三度繰り返すことがありませんように。
祈らずにはいられません。 

身近な人から被爆体験談を聞けたこと。長崎の爆心地にほど近い所に生まれ育ち、小・中学校ともに被爆した校舎(一部)で平和について考える時間を持てたこと。
大人になった今、子供の時この“貴重な体験”をすることができて本当に良かったと思っています。と同時に、戦争というものがいかに多くの犠牲を生むだけの、愚かで、人を狂気に駆り立てる恐ろしいものかということを、もっと多くの人に語り継ぐ使命があるのだと実感しています。

私も含め、皆もう一度正しく歴史を学ぶ必要がある。
いまを生きる上で最も重要な“現代史”を、学校教育ではなぜかいつも最後に駆け足で片づけてしまうのだろう?
なぜ現代から遡って教えないのだろう? 
これこそが日本の若者が戦争の歴史認識に欠ける大きな原因の一つになっているのではないだろうか?
ニュースで靖国神社のことが今なぜ問題にされているのか?
子供達に教えることが必要だと思う。

1年に1度で良い、家族や友人と、戦争や平和について語り合ってください。そして是非機会を作って広島・長崎の資料館に足を運んで、平和について考えてみてください。

http://www.being-nagasaki.jp/genbakutaikenki/top.htm
被爆体験記(長崎バプテスト教会のページより)
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by atelier_Lapine | 2007-08-10 14:07